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일본 귀화 오선화 산케이 신문 2014.8월 연재칼럼 스크랩

나까마뉴스/일본뉴스

by 김타쿠닷컴 2014. 8. 8. 05:29

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일본 산케이신문 2014.8월에 연재된 오선화 취재 칼럼 모음

본인 글실력이 부족한 탓인지 몰라도 직접 투고한 글이 아니다. 칼럼 하단에 글 작성자는 다른 사람이다. 제3자가 듣고 작성한 글이다.  

오선화는 누구인가?

http://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%98%A4%EC%84%A0%ED%99%94


2013/07/28 티비조선 뉴스

일본에 귀화해 수십년간 한국에 대한 망언을 일삼고 있는 오선화라는 인물의 입국을 우리 정부가 거부했습니다.


評論家・呉善花(57)(1)日韓理解は価値観の違い認識から

2014.8.4 03:05 (1/2ページ)話の肖像画


 

〈1983(昭和58)年に27歳で来日して以来、韓国と日本、韓国人と日本人、似て非なるものに悩み苦しむ時期が続いた。そんな日韓のはざまで悩み、考えたことを本にしてみようと考えた〉

  姿かたちや文化の類似性からすると、日本人と韓国人はとても近いと思えます。でも、ちょっと中に入り込むと全然違うのです。日本と韓国の差異に強く悩んで いたころ、日本語学校で知り合ったフランス人と欧州に行き、欧州の空気を味わいながら日本を見直しました。欧州はやはり個人主義で階層間の差が激しい社 会。日本は私にとっておかしな人たちが住んでいる国なのに、なぜ大多数の人たちの生活が豊かな社会をつくり上げられたのだろう。それで自分の価値観や心情 をいったんカッコに入れて、できるだけとらわれない目で日本人を探っていこうと思ったのです。

 それまでは、いろんな激しい葛藤がたくさん あって、なかなかうまくいかなかった。親しい日本人との間でもうまくいかない。でも全てをあきらめるわけにはいかない、日本を探っていくしかないと思いま した。日本人とは何か、なぜ韓国人の感覚と違うのか。悩みながら探っていこうと思いました。民族的なアイデンティティーの危機に陥り、悩んだ末のことで す。

 〈日本を、日本人を深く探りたい-。そんな思いの輪郭を、韓国人ホステスらとの出会いがくっきりと浮き出させた。初出版の『スカートの風』(三交社)は日本と韓国の社会を素直に見つめたものだった。大きな反響を呼んだ〉


日本語学校の活動を通じて日本人との人間関係に悩む韓国人ホステスたちの話を聞いて、また日本人ビジネスマンとの勉強会で韓国とのビジネスの上で悩 む話を聞いて、日韓の文化や習慣の違いを深く探ろうという気持ちが強くなりました。テレビ番組の依頼で新宿・歌舞伎町の韓国人ホステスを取材したことが きっかけで、出版の話が来ました。出版するまで大変時間がかかりましたが、いろいろな方々の協力があって本を出すことができました。

 出版 してすぐに、読者からたくさんの手紙が来ました。いずれも目からウロコが落ちた、深く感動したという内容で、うれし涙がとまりませんでした。自分の考えを 書いたものが、日本社会で共感され、受け入れられるという感動がありました。その一方で、韓国の留学生や韓国のマスコミからはものすごい批判を浴びまし た。批判は本の内容ではなく、「売国的言辞を弄した」ということで、私を個人攻撃するものがほとんどでした。残念でしたが、韓国はこんなにもレベルが低い のかと思いました。

 日韓関係がうまくいかないのは、文化・習慣・価値観などの違いが互いによく認識されていないことが出発点にあると私は 指摘したかったのです。それを指摘しない限り、日韓はうまくいかないと考えました。本では文化・習慣・価値観の違いをたくさん書いています。日韓の相互理 解を深めるとともに、日本社会が韓国に対して虚心坦懐(たんかい)に意見を言えるきっかけを作ったのではないか、と自負しています。(聞き手 是永桂一)

                   ◇

【プロフィル】呉善花

  オ・ソンファ 1956年、韓国・済州島生まれ。看護学校などを経て4年間、志願で女子軍隊生活を送る。83年に来日し、大東文化大を卒業後、東京外語大 大学院の修士課程修了。90年から執筆活動を開始し、著書は『スカートの風』をはじめ、第5回山本七平賞を受賞した『攘夷の韓国、開国の日本』や『なぜ 「反日韓国に未来はない」のか』など多数。拓殖大国際学部教授。


http://sankei.jp.msn.com/world/news/140804/kor14080403050001-n1.htm



反日に染まりながら母の教え忘れず「日本人はすごく親切よ」 評論家・呉善花(57)(2)


2014.8.5 03:14 (1/2ページ)話の肖像画

 〈1956(昭和31)年、自然豊かで開放的な気風とされる韓国・済州島に生まれた。母の影響もあり、日本への憧れが育った〉

 済 州島の東海岸側で生まれました。故郷はいつも日の出が美しくて、そういう景色をずっと見て育ち、海のかなたを思っていました。家族は両親と姉が2人、兄と 弟と妹が1人ずつ。私は真ん中でした。母は日本の話をよくしてくれました。戦前、大阪に親類がいて、母は一時期、一緒に暮らしていました。母は父と結婚し て一度韓国に戻り、そして鹿児島に行き、父とともに親類親子と一緒に終戦になるまで働きました。母からよく聞いたのは「日本人はすごく親切なのよ」「日本 には泥棒がいないのよ」といった、思い出話でした。とにかく、日本人にどれだけ親切にされたかを具体的に話してくれました。母の話は鮮明に覚えています。

  小学校に上がると反日教育があり、私もどんどん反日に染まっていきました。来日した時は「悪い日本を変えてやらねばならない」という気持ちが人一倍強かっ たのですが、次第に日本人とは何かということを自分で探ろうと思うようになったのは、子供の頃に母から聞いた「よき日本の思い出話」が大きかったと思いま す。

 〈海のかなたに憧れる少女は高校、看護学校を経て1976年に軍隊に入る〉

 1970年代、西ドイツが韓国から看護師 を受け入れていたので、看護師になって西ドイツに行こうと思い、看護学校に入りました。ところが入学直後に西ドイツが韓国からの看護師受け入れをストップ してしまいました。それで、1カ月で看護学校を退学しました。親には申し訳なかったですが、私はどこかで夢を追っていたんです。外への夢です。


1970年代は軍人の地位は今より高く、たまたま私のいとこが軍隊に幹部としていたんです。いとこに面会するため、陸軍本部に行ったら、陸軍で働く 女性もかっこよく見えました。それまでは外国に行くことばかり考えていましたが、きびきびとした軍人の姿の美しさや、愛国心もあって軍隊に入ろうと決意し ました。

 軍隊での生活は4年間続きました。すごく厳しかったのですが、私は前向きにできるだけ楽しむようにしました。新しいものに挑戦す ることも好きでしたし、挑戦が厳しいものであるほど楽しみでした。軍隊に入りながら臨床病理の学校にも通って、除隊後は病院に勤めたのですが、臨床病理を 専門とするために米国留学を考えていました。当時の韓国では米国留学はかなり困難でしたので、ひとまず日本に行こう、そうすれば米国留学の道もひらかれる のではないか、と考えました。病院の近くに日本語教室がありましたので、私は昼ご飯の時間を利用して日本語を勉強しに通ったんです。幼い頃の日本への憧れ が再び、頭をもたげてきたのです。(聞き手 是永桂一)


http://sankei.jp.msn.com/world/news/140805/kor14080503140001-n1.htm


韓国との違いに苦しんだ日本での生活  評論家・呉善花(57)(3)

2014.8.6 03:36 (1/2ページ)話の肖像画

 〈1983(昭和58)年に来日し、日本での生活が始まる。日本との触れあいは驚きにあふれていた〉

 日本で初めての生活の場は、 東京都北区十条の2階建てのアパートでした。6畳間とキッチンがある部屋でした。韓国よりずっと商品が豊富な商店街が魅力的で、買い物などもよくしまし た。日常的な日本人の方々との触れ合いがありました。商店街界隈(かいわい)では盛んに情緒が飛び交い、日本人をよく知ることができました。

  日本の第一印象は、人はみんな親切で、優しく、思いやりがあり、治安もとてもよい、というものでした。ある時、電話ボックスに財布を忘れてしまい数時間後 に気づいたのですが、あるわけもないと行ってみると、なんと私の財布がそのまま置いてありました。あり得ないことだと思いました。ある時は、お店で小さな 袋に入ったお米を買って炊いたらバサバサするんです。玄米系の米だったらしいのですが、買ったお店に持っていったら、そのまま新しいものに換えてくれまし た。信じられない思いでした。

 〈楽しいはずの日本での生活だったが、その風土に慣れるのに従って違和感が芽生えてくる。日韓の間で、壁に挟まれていった〉

 言葉がある程度できるようになると、だんだん日韓の違いに苦しむようにもなりました。楽しい日本生活がスタートしましたが、2、3年たって一歩踏み込んだ関係へと入っていく段階で、いろいろと問題が生じました。


美容院で、わざわざ「きれいにしてくださいね」と言って、美容師さんが気分を悪くするということもありました。韓国風の親しみを込めた言い方が、プ ロの職業人への嫌みに聞こえてしまうのですね。また、青果店で、キムチを作る白菜を買うときに「白菜をたくさん買うから良い白菜をくださいね」と言いなが ら、白菜を手で何度もひっくり返したのです。ものすごく気分を悪くさせてしまいました。

 そこで、深く悩み、苦しみました。日本人は差別的 だから韓国人が日本で成功することは至難の業だと聞かされていました。やはりそうなんだと思いましたが、日本人にはどこか韓国人に対する特有な親和性があ るとも感じられるのです。そこに接点を持てれば、うまくいくかもしれない。そう自分自身に言い聞かせて、行き違いや誤解を重ねながらも日本人とのつきあい を深めていこうと思いました。

 ある機会から、日本人ビジネスマンとの月1回の勉強会に参加しました。そこで真剣に議論したり、食事や飲み 会を重ねたりしました。そうしていくうちに、自分の考え方や感じ方と日本人のそれとのズレがわかるようになり、次第に自分の方のよくない点に多々気づくこ とになりました。その体験が自分を変えていくきっかけになったと思います。(聞き手 是永桂一)


http://sankei.jp.msn.com/world/news/140806/kor14080603360003-n1.htm


日本への傾倒、韓国とのギャップ 帰化、そして祖国 評論家・呉善花(57)(4)

2014.8.7 03:18 (1/2ページ)話の肖像画

 〈『スカートの風』(三交社)の出版をきっかけに本格的な評論活動に入り、1988年に日本に帰化する〉

 評論活動を続けていくう ちに日本がさらに好きになりました。東京外語大の大学院では米国のことをずっと研究していたのですが、結局は日本にすごく魅力を感じるようになり、米国行 きはやめました。仕事の依頼も多くなって、主に日韓比較論や日本人や日本文化について書くようになりました。日本人とは何かを探っているうちに、日本と自 分が切り離せなくなったのです。日本人がずっと住んできた日本という国に強くひかれていったんです。

 おのずと物事への感じ方や考え方が日 本的になっていきます。そういう自分が韓国人と会うと、ものすごいギャップが生じる。韓国というものを外から見ている自分を発見しました。客観的に見ると 韓国の矛盾や問題点がすごく見えるようになったんです。韓国の悪いところ、日本人が気がつかない日本の良いところ、この2つを引っ張り出すのが私の仕事の 役割だと思うようになりました。日本を愛するようになっているのは極めて自然な流れだと思いました。そこから日本に帰化するのが自然だと思うようになった のです。

 〈愛する日本と祖国・韓国、苦渋の帰化だった。そんな選択は思わぬ波紋も呼んだ〉


 韓国からの攻撃はずっと続いていました。日本での著作活動を続けていると、韓国の治安当局からも「韓国を批判する本を書くな」と指弾されるように なりました。韓国のマスコミ、政府からも個人攻撃を受け続け、彼らの批判のあり方のレベルがあまりにも低いと絶望もするようになりました。私が帰化を決断 したのは日韓の社会のレベル差を強く感じたからです。国籍を変えるということは、韓国の家族や故郷を捨てるということではありません。きょうだいたちにも 納得してもらいました。

 韓国のマスコミ、政府から攻撃を受けていて、韓国人のままだと何をされるかも分からない、という気持ちもありました。自由な言論活動をしていく上で、帰化という選択は必須とも思えました。親日言論が韓国では抑圧されますが、決してそうされたくなかったのです。

  しかし、平成19年、当時の盧武鉉政権の下で、母の葬儀に出席するため韓国へ行ったのですが入国を拒否されました。理由を尋ねても、当局は「上からの命令 だ」としか言わない。その時は、母の葬儀以外の活動に参加しないという条件付きでなんとか入国が認められました。しかし、昨年7月、親類の結婚式のために 入国しようとしたら、また入国できませんでした。もっと開放的になるべき韓国が北朝鮮みたいになっている。過去に戻っているということに対して、心を非常 に痛めています。(聞き手 是永桂一)


http://sankei.jp.msn.com/world/news/140807/kor14080703180001-n1.htm



2014.7월 센다이 정론 간담회 오선화 강연! 위안부 문제 한국 스스로에 대한 모욕

仙台「正論」懇話会 呉善花氏講演 慰安婦問題「韓国自身への侮辱」

2014.7.25 02:10 (1/3ページ)

 「日本と韓国では根本的に価値観が異なる」。24日、仙台市青葉区の江陽グランドホテルで開かれた仙台「正論」懇話会の第37回講演会で、講師に 招かれた拓殖大学国際学部教授の呉善花(オ・ソンファ)氏(57)は、日韓両国にまたがる価値観の隔たりを分かりやすく解説した。会場に詰めかけた約 270人の参加者は、気鋭の評論家の意見に熱心に耳を傾けた。

  講演後の質疑応答でも挙手が相次いだ。「戦前の日本統治下で残した資産などについて、韓国内ではどのような認識なのか」という質問には、「日本統治下では ひどいことをされたと教わるが、人口も約30年間で約1千万人増加した。ハングルも教えているのに、日本語を教えたという事実だけを切り取っている」と紹 介。「韓国は何が正しい歴史なのか分からなくなっている」と続けた。

 また、「ベトナム戦争で、韓国軍が現地で暴行をしたとされる問題をどう思うか」という質問も。呉氏は「(ほかにも)問題はたくさんある」と答え、国際社会では女性問題が注目されやすいことを指摘した。


その上で慰安婦問題に言及し、米国で慰安婦像を建てる動きが活発化していることについて、「例えばアメリカのコリアタウンに『慰安婦通り』と名付け たら、従業員は『私はそこで働いている』といえるだろうか」と疑問を投げかけ、慰安婦問題で日本をおとしめようと宣伝するほど、韓国女性に対する侮辱につ ながると主張した。

 ■講演要旨「話し合いをすればいい」は通じない

 韓国では60歳ぐらいから下の世代は強烈な反日教育を受けた。朴槿恵(パククネ)大統領は反日的発言を繰り返しているが、反日であればどんな悪口でも許されるのが韓国社会だ。

 韓国は慰安婦問題に力を入れている。歴史認識や竹島問題には、欧米人は関心がないからだ。女性問題や人権問題はいまの時代にぴったりだ。世界の人々は『日本人はひどい』という気持ちになる。

 韓国人は日本人の技術や文化を評価している。しかし、日本人の精神性を支える軸が分かりにくい。韓国は祖先を拝む儒教が基盤だ。韓国人からは多神教の日本人は未開人に見える。


これは地政学的、歴史的な問題が大きい。地政学的に日本は島国、朝鮮半島は大陸に接している。中国や韓国は異民族の絶え間ない侵略を受けた。山の神 や海の神を信じていたのでは、いつ征服されるか分からない。信じられるものは絶対唯一なるものだ。それが韓国では偉い人が作った歴史だ。韓国では歴史は 100%正しいという価値観を持っている。日本人がいろいろな歴史認識があると言っても理解してもらえない。

 日本は異民族から侵略(支配)されたことがない。和を大事にし、絶対唯一の神ではない。自分の考えだけが絶対ではなく、ほかの人の考え方も聞こうという価値観が残ったのは島国だからだ。

 韓国から日本を見ると分かりにくく、日本のことが不安でならない。あるときは平和ぼけしているように見えるが、ときには何か恐ろしい集団主義のようにも見える。だから、たたいておこうとなる。

 価値観や歴史背景などを踏まえて韓国人と向き合うべきだ。「ただ話し合いをすればいいんだ」というのは日本人だけの考えであって、韓国には通じない。


http://sankei.jp.msn.com/region/news/140725/myg14072502100001-n1.htm

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140725-00000018-san-l04

http://sankei.jp.msn.com/region/news/140621/myg14062112000001-n1.htm


일본나까마

http://cafe.daum.net/japanhp


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